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コラム「異見と意見」

当然のことを当り前に

 「当然のことを当り前に」。これは、不良債権の回収を厳しく進め、「平成の鬼平」とも呼ばれる整理回収機構の中坊公平社長が、その職を勇退するに当っての、8月5日付朝日新聞社説の見出しである。といっても当社社員の大多数は誰のことか分からないかも知れない。社会の出来事に無関心でいてもそれなりに毎日を過せる、そんな平和で豊かな現在の日本である。しかし、その無関心で居る事こそが、将来の日本を考える時、一番重大な問題ではないかと思う。

 「自分さえ良ければ」というエゴが充満した社会(7月29日、中坊公平氏談)の中で、私達が社会に無関心、あるいは自己利益、自己満足に浸っている内に、政府および金融機関は大量の不良債権を発生させ、その結果の金融不安が、戦後最悪、最長といわれる大不況をまねいた。その主犯ともいえる金融機関が、一般企業なら倒産に近い経営危機に陥ると、政府は再び私達の無関心を良いことに、私達の納めた税金で、その救済を行った。

 「なんで金融界や大蔵省の不始末を、何の罪もない国民が負担せなあかんねん」「国民にこれ以上負担させない」という言葉の端々から、理不尽なものへの怒りと正義感が伝わって来る中坊公平社長は、無報酬で、その不良債権回収の役を引き受け、この3年間で、金融機関が残した回収すべき不良債権の内の、実に41%を回収した。実稼働日一日当り40億円もの回収に相当するという。

 この間、闇の勢力とは手を結ばず、血も涙もない取り立てはせず、法律家らしく、公正さと手続きを重んじ、自ら、その陣頭指揮をとった。最近の2ヶ月間で休みは2日間だけだった。そして今、述懐する。「あらゆる意味での強者、権力の壁があり、なかなか容易なことではなかった。」と。

 幹部としての職責は果さず、短期勤務にもかかわらず、多額の退職金を当然のごとく手にする金融幹部の不始末を、無報酬の民間人があと始末するというのは、正に異状であり皮肉でもある。

 「なんで金融界や大蔵省の不始末を、何の罪もない国民が負担せなあかんねん」この単純で当り前の疑問と理不尽さに果敢に取り組んだ、勇気ある中坊公平社長のこれまでの奮闘に、心ある多くの人は拍手を送っている。

 「借りたものは返す」この当り前のことを守らない人達に、当り前のことをさせただけ。別に特別な事をした訳ではない。にもかかわらず、この人の行った事にさわやかさを感じるのはなぜだろう。「当り前の事を、当り前のごとくやる。そんな常識と信念を貫ける人が、今の日本にはいかに少ないか。中坊さん人気は、貧しさの裏返しでもある。」と朝日新聞の社説は結んでいる。

 私達は今、「当然のことを当然に」行っているだろうか。また、私達が「当然のこと」と思い込んでいる事を、原点に立返って、見つめ直すべき時に来ているのではないだろうか。

 その本業の程度よりも建物のみが立派な大学や役所、勉強をしない学生、公共の広場や通路を占有するホームレスの人や個人の自転車、役職相当の仕事はしなくても高い給料や退職金へのこだわり。今や、こういうことが当り前となっている。

 評論家の竹村健一さんが云う。「日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識」と。1900年代はもうすぐ終り、新しい2000年代が始まる。新しい年代に向って、「何が当り前で、何が当り前でない」のかを見直し、「当り前の事を当り前に行う」そんな社会にしなければならないと思う。

 戦後の荒廃の中から立上がるに当って、私達は昔から伝わる「すばらしい日本人の心」を一寸だけ横に置いて、先ず物質的豊かさを追い求めてきた。その結果として今、この平和で豊かな社会を実現し得た。だから、今こそ、あの時一寸脇に置いて来た「すばらしい日本人の心」をとり戻すべき時だと思う。物、金だけで価値を測り、「自分さえよければ」というエゴが充満した社会から脱却しなければならない。

 私は、その原因を作ったのも、それを解決する力があるのも、企業だと考えている。そこで当社は、誰にでも分かる、「当り前の事を当り前にやる」事を経営理念として定めた。この理念を、一人一人の社員が理解し、心に宿し、それに従って行動すれば、それが社風になる。