ホーム > 基本姿勢と経営理念 > コラム「異見と意見」コラム一覧 > 自分を信じて行動し、自分の信じる道を生きる

コラム「異見と意見」

自分を信じて行動し、自分の信じる道を生きる

 かって「人生50年」と言われた時代があった。そして今、日本人の平均寿命は83.3歳で、香港に次いで世界第2位。男女別では男子80.5歳で世界第3位、女子86.3歳で世界一。「人生50年」と言われた時代に比べれば実に長い人生である。しかしながら見方を変えればたかが100年、あっという間に終わる、限りある人生である。その間、誰にも等しく一日24時間、一年365日という時間が与えられている。その時間に何を学び、どの様に働き、どのように社会生活を送るのか、その積み重ねがそれぞれの人の人生を形成する。

 しかしながら意外にも私たちは、日常的に病気や事故などから生き延びることには関心があっても、人生には限りがあることにはほとんど無関心で、貴重な日々をただ淡々と働き、消耗し、過ごしていると言えないだろうか?その一方で最近は、個性化という言葉も多く聞かれるようになったが、個性化とはどういうことかについても無関心であるように感じられる。その結果、一般社会生活では社会常識、社会道徳、あるいは法律、宗教の教えなどといった枠の中に自分を閉じ込め、また自らの思い込みでも枠を作り、その枠からはみ出さないように自分を縛って行動し、過ごすのが良いと思い込んで生きていると言えなくもない。道路交通法などを除けば日常的には常識も道徳も、法律でさえも、確たる知識も関心も殆どないまま過ごしている。そのためか最近、若者達に道徳教育を行おうという動きも見える。果たして、「これが正しい」などと言って教えられるような道徳があるのだろうか?画一的な人間をつくることが良いのだろうか?道徳は人格や個性の源泉であろう。

 私は生まれて既に76年、社会に出て57年を生きて来た。その人生体験をもとに、「当社の常識は一般企業の非常識」と公言してやまない会社育てを行った。そのような私だから、誰かが決めた事、特に一般社会道徳などにただ忠実に生きる、聖人君子のような生き方が良いとは思わない。そのような画一的聖人君子に魅力も感じないし、自分が聖人君子を目指そうなどとは思わない。むしろ自分は、時には不道徳な、社会常識から大いにはみ出して生きているともいえる。私が大切にしたいのは、誰が決めたかもわからない常識、ご都合主義とも言えるような道徳、時には責任逃れの法律や規則より、人間を大事にし、自分が納得し信じるものに忠実に生きるということである。自分自身の道徳、それが自分の個性だと思っている。

 日常生活で度々見かけることだが、社会常識や道徳も、法律も宗教も、本来は全て社会で生きていく人間のためにあるはずだ。しかしながら実態は逆で、それらで人間を縛り、この個性化がさけばれる時代に、画一的で魅力もない規格化人間をつくろうとしているとさえ思う。お役人の中には、国民や市民より法律や規則を守ることを優先して、まるでロボットの様に振る舞う者が居るかと思えば、一般社会では道徳と称するもので、心にもない親切を強要していると感じる時もある。

 人は皆、意識しているかいないかに関わらず幸せを求めて生きている。幸せを求める権利もある。同時に、他人のその権利を制限あるいは阻害する権利はない。そのことを認識、前提にした上で、自分が納得し、自分が信じる基準、自分独自の道徳に従って生きる、それが個性ある生き方ではないかと思う。そこで初めて、この世でたった一つの、自分にしか与えられなかった、たった一度の自分の人生、個性ある人生を生きたと言えるのではないだろうか。そのような認識で、私は一般社会常識や社会道徳からは大きく外れているかもしれないが、自分の人生経験を活かしながら、自分が信じる自分の基準、自分の社会道徳に基づいて生きてきた。人それぞれ、10人十色、誰にでも自分の信じる生き方があってよいのではないだろうか?誰もが自分の社会常識、社会道徳をもって、それを社会に問いながら生きる社会であったらよいと思う。

 蛇足だが、同じ発想に立てば、起きている時間の大部分を過ごす職場での時間は、その人の人生の極めて重要な部分に位置する。仕事は自己成長のための教材。上司の指示だから、顧客の要求だから仕方なく働くというのではなく、自分で納得し、自分の仕事として全力で取り組むこと、そのことを通じて自己成長を図り、自分が信じる自分の生き方、自分の道徳、つまり自分の個性が生まれると思う。

 最近、あの北野武氏が「新しい道徳」という本を出版した。日頃結構いい加減とも感じられる行動をする著名人だが、この著作に主張された彼の考えには大いに賛同できる。実に素晴らしいと思った。

(H27.10.3 記)