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コラム「異見と意見」COLUMN

人間皆んな障害者

肢体に不自由のある人、精神に障害のある人、あるいは知恵遅れの人達は、日常生活の中で苦労を重ねながらも、夫々に精一杯生きている。その一方で、社会からは特別な目で見られ、差別され、あるいは自ら思い悩み、一般社会から遠ざかり苦労している人も多い。私は日頃から機会ある毎に「いわゆる障害者問題には2つの悲劇がある」と話して来た。その1つは、いわゆる障害者が、その障害が故の不自由に、自分は障害者だという思いで悲嘆に暮れている事、あるいは社会の表舞台を避けて生活しようとしていることである。他の1つは、いわゆる健常者が、自分は障害者ではないという立場から、いわゆる障害者を特別な目で見るか、あるいは無関心でいることである。これはどちらも悲劇的なことだ。全ての機能、能力が完全な人間などどこにもいない。目に見えるかどうかの違いがあるだけで、皆何らかの欠陥を持っている。今たまたま目に見える欠陥を持っていなくても、明日にでも自分がそのようになる、あるいはそういう子供が生まれて来る可能性だって誰にでもある。

私は2つの悲劇について次のような対応をしたらよいとも話して来た。「ありのままの現実を、冷静に素直に認め、受け入れよう。無いものねだりをしても仕方がない。悩むことにエネルギーと時間を費すよりも、残っているもの、自分が今持っている機能、能力を鍛え、伸ばし、最大限に発揮することに努めよう。そして誰かが、欠陥が故に困っていたら、自分のできる事をして、さわやかに助けよう。同情でなく、当たり前だから。人間皆んな障害者。障害の種類が違うだけ。自分の持っているものを出し合ってお互いに助け合うのが人間社会。」

自分の意志に関係なく持ってしまった障害。避けて通る事のできない苦労ならば、その与えられた環境条件を素直に認め、受入れ、そこを基点として自分を伸ばし、社会に役立ち、自分も楽しく生きられる方法を工夫しよう。そういう学びをした人は、自分には何も障害はないと思い、学ばない人よりは、はるかに人生の先輩だ。

「先天性四肢障害児父母の会」の写真集、『いのちはずむ仲間たち』の中に次の文があった。

「不自由でしょう」と言われて

まわりの人が思っているほど
不自由なことって何もない。
生まれつきだから。
私にとっては これが普通だしね。
自分で工夫すれば
だいたい何でもできるよ。

小学校6年生の女の子
医師から義手を奨められて

私はこう思います。
お母さんのおなかから
このまま生まれてきたのだから
このままでもいいと思う。
それでいろいろやっていき
大切にしたいと思います。
だから、義手はいらないと思います。
私は、誰だって得意なことと苦手なことがあると思います。
それと同じです。

小学校4年生の女の子

自分の与えられた環境に、恵まれていることに気づかず、不平不満の多い人がいる一方、こういう人生の先輩もいる。

(1993.07.23 記)

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