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日本コンピュータ開発

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コラム「異見と意見」COLUMN

成果は後からついて来る ~成せば成る何事も~

(社)科学技術と経済の会「技術と経済」2003年5月号より

はじめに

現代は、主婦や子供までもが家庭のパソコンでインターネットを楽しむ時代である。しかし、今から40年近く前の日本は、先進国アメリカのコンピュータ企業と提携し、そのデッドコピー生産を通じて国産コンピュータの開発、生産を軌道に乗せようと、官民一体となって必死に取り組んでいた。そんなある日、当時私が勤めていたメーカー(日本を代表する大企業)で、アメリカからの部品輸入が滞り、工場の生産ラインが停止しそうな事態が起きた。

直ちに購買課長が渡米し、部品各社を訪問して必要な部品調達をするという緊急対策が決まった。そこで、現地での技術的問題への対応のため、開発設計部門で部品技術を担当していた私が、購買課長に同行することになった。ところが出発予定2週間前というのに、総務部門から私の海外出張に待ったがかかった。どうやら私が高校卒で英検2級すら持っていないことが海外出張規則に抵触したらしい。

それから10年余が経過したある日、既に取引先の小規模電子部品会社に転職し、製造担当役員として地方工場勤務をしていた私に、突然、海外進出担当者として直ちに渡米せよとの社長命令が下った。既に40歳を過ぎ、英語は全く話せない人間を、これまで一度も学んだことも経験したこともない会社設立から工場建設という任務のため、たった一人で渡米させようというのである。大企業と違って小企業では、ないない尽くしの中で全てを一人でこなしていかなければならない。

渡米後這いずり回るようにして仕事をスタートさせ、直面する課題とただ夢中で戦った5年間があっという間に過ぎた。そしてふと気が付くと、当初目論んだ会社設立から顧客開拓、工場建設から商品開発までが、何事もなかったように成功裏に終わっていた。「成せば成る成さねば成らぬ何事も」という先人の言葉を実感した瞬間である。通算して6年。あの厳しく波瀾に満ちたアメリカでの挑戦の日々は、私の人生にとって貴重な財産であり宝である。以下に「成せば成った」私のささやかな体験、そこから学んだことなどを思い出しながら綴ってみたい。

ここがミネソタ

1979年8月のある日、不安で落ち着かない私を乗せたノースウェスト航空の飛行機は、とうとう目的地ミネアポリス・セントポール国際空港に着陸した。既に午後4時を廻っている。今夜のホテルの予約はしていない。予約の仕方も知らない。いや英語さえ話せない。友人も知人も居ない。さてこれからどうしたら良いのか?

会社が用意してくれたのは目的地までの航空券、3,000ドルの外貨、それに当時の私には使い慣れないクレジットカードだけ。目的地は、教育レベルが高く、まだ日本人が荒していない地域という理由で、2週間前に決まったばかりのミネソタ。不安一杯の中で、とうとう来てしまった。

工業高校を卒業した程度の学力、しかも学生時代から英語は最も不得手、さらに英語とは無縁の、水と空気がきれいな奥三河で6年間の工場勤務、アルファベットを書くだけでも手が震える。そこから直接アメリカへの転勤。経由地のサンフランシスコでは、慣れない入国手続き、飛行機の乗り換えだけで精一杯。そして今、目的地に着いて初めてホテルの予約をしていないことに気付き慌てる始末。旅慣れず、機転も利かず、問題は常に一つずつシリーズでしか気付かない。

あの時、誰にどんな方法でお願いしたのか今では思い出せないが、とにかく空港で誰かに頼み、その日一晩のホテルを確保し、そこにタクシーで送り届けてもらった。ホテルについた翌朝、先ず自分はどんなところに居るのか、どちらが西か東かを確認したいと思った。そこで徒歩5分ほどのミネアポリス市内で一番高いIDSセンタービルの展望階に上がった。そして初めて自分の居る所が、四方に地平線が見える果てしなく広大で緑豊かな大地で、その中に多くの湖が点在する大平原の真っ只中であることと、朝日が昇る方角とを知った。

次は行動の足の確保である。やっとレンタカーを借りたものの地図の見方が分からない。そのため、少し遠出をすると道に迷いホテルにうまく帰れない。そんな中で、急いで次のホテルを探さなければならない。今のホテルは一晩の予約と聞いていたが、言葉が分からないのを良いことにまだ居座っている。

ついにそのホテルを追い出され、苦労して次のホテルを見つけては、また同じことの繰り返し。一ヶ月間にわたってホテルを転々とした後、全く内容を理解できないまま契約書にサインして、ついにワンベッドルームのアパートに転がり込む。これで追い出されることはない。

しかし家具類はどうして揃えたら良いのか分からない。やっとレンタル家具屋の存在を教わり一通りの生活用品を確保できた時、渡米以来初めて落ち着いて睡眠をとることができた。こうして赴任第一歩が始まった。

会社設立初体験

苦闘の末、家具を調達し、電話を引き込み、日本の本社との最初の国際電話に飛び込んできたのは「すぐに現地会社を設立せよ」との社長命令。やっと住居を確保したものの、まだ生活の仕方さえ分からずもたついていた私には、大変な難題であった。思えば私は、渡米を任命されて以来この時まで、工場運営手法に関する意見の相違で、社長とは十分な会話ができていなかった。駐在に当たっての任務や日程などの詳細を打ち合わせたことがない。

私にはただ漠然と、一般的なアメリカ駐在員という認識しかなかったので、予備調査さえしていない。しかしながら、社長命令では言い訳無用。何とかして期待に応えるしかない。しかし、会社設立の経験も知識もない私には何をどうすれば良いのか全く見当がつかない。教わる人もいない。

先ずは英語の辞書を片手に、家具や電話の件で随分迷惑をかけたことで、今では唯一の『知人』となったアパートの管理人の所に駆け込んだ。そして単語を並べながらのやり取り(会話ではない)の結果、「チェンバーオブコマースに行け」と言っていることが分かった。その言葉の意味は、辞書の助けでやっと商工会議所であることを知った。

その商工会議所のある場所を苦労して見つけ、やっと訪問し、またしても長い時間をかけた単語のやり取り会話の末、会社設立には、弁護士、銀行、会計士を確保しなければならないことが分かった。しかし、日本でも付き合ったことのないこういう人達を、このアメリカでどうやって見つければ良いのか?

親切にも商工会議所の人が、会員名簿からそれぞれ3つずつ候補を挙げてくれた。しかし決定は自分で行えと言う。こちらに選択基準など有るはずがない。

鉛筆を転がして決め訪問。やっと訪問目的を理解してもらい、手続きを依頼して、ついに現地法人としての会社設立。それも自分の住むワンベッドルームのアパートを本社として、社員は私一人。

日本の本社に設立完了報告をすると、今度は「ぐずぐずせず、直ちに全力で営業活動に取り組め。そうしないと会社はやって行けない」との社長命令。当り前のことである。しかし私には日本でも営業の経験はない。ここでは言葉も通じない。顧客をどうして探せば良いのかさえ分からない。

またしてもアパートの管理人、弁護士、会計士、銀行など、数少ない『知人達』を手当たり次第に訪ね、単語並べ会話の結果、初めてイェローページ電話帳の存在と活用法を知った。それから毎日、対面会話よりさらに難しい電話で、会話にならない英語でアポイントメントを取り、購買部門への押しかけ訪問が始まった。今考えれば、こんな変な営業マンに取り付かれた企業の購買担当者は気の毒だったと思う。しかしみんな良く付き合ってくれた。当時お世話になった人達の内何人かとは、20年以上経った今でも、家族ぐるみの親しい付き合いが続いている。

そのうち断片的ながら、徐々に顧客とのコミュニケーションが取れるようになり、サンプル注文から、さらに生産用注文まで受けるようになった。いよいよ本格的な日本からの輸入販売開始である。しかしながら、輸入した荷物の受け取り方を知らない。受け取った荷物の顧客への発送法も知らない。またしても購買担当者を含む『知人達』を訪ね、ここで初めてブローカーという通関業者の存在、LC決済のこと、空港のカーゴターミナルでの荷物の受け取り方、UPSという運送会社の利用の仕方などを教えてもらった。

この時点になって初めて荷受、荷造り出荷担当者として、日本語の分かるアメリカ人一人を採用した。こうして毎日が初体験の連続だったが、良く考えてみると、技術屋くずれとも云える私の一般常識の無さが、他の人なら何でもないようなことにまで、大変な思いをする結果になったような気がする。

それから1年半、大分言葉が通じるようになり、電話やTELEXを利用した営業も可能になるにつれ、顧客数もビジネス量も徐々に拡大し、それと共に購買担当者以外にも片言英語を通じて、親しく付き合ってくれる人も増えてきた。時には納品の不良事故も発生し、受入検査で納入を止められることもあったが、かってコンピュータの開発設計から部品技術までを担当し、また部品会社で製造を担当した経験が役立ち、顧客の検査技術者や、時には設計技術者までを説得し、大問題になることを未然に防ぐことも度々あった。このことは、アメリカでは珍しい《品質から技術まで分かる営業マン》として、顧客から絶大な信頼を得る結果となった。

赤字からの脱出

工場生産立ち上げのため、一年前にハーバードビジネススクールのMBAを修了早々採用し、工場実習のため日本に送り込んでいた一人のアメリカ人を呼び戻して、設備や資材の現地調達から設置、生産要員の採用などを一緒に行った。そのため労働慣行やビジネス習慣の違いも多い中、比較的早くトラブルなく稼動させることができた。しかしながら、生産品目について、社長が訓練目的を兼ねて古典的な製品の生産に拘ったため、稼動から一年経っても収益改善の見通しが立たなかった。

そこで営業を担当する私は、付加価値の高い商品開発の必要性を感じ、当時ミニコンのIBMと云われたコンピュータメーカーDEC(Digital Equipment Corp.)を訪問、かってのコンピュータ技術者の経験を活かして開発技術者と会い、直面する問題点などを調査した結果、部品開発の見通しが立たず新機種の開発が大幅に遅れていることを知った。

当時のDECの回路技術は私が日本で経験した技術より一世代遅れていたので、直ちにその問題解決策を提案し、私の発案による試作サンプルを一ヶ月後に持ち込んだ。その対応の速さと満足できる部品性能ですっかり信頼を得、量産設備を含む開発費用の全てをDECが負担し、さらには一年分の発注を保証され、資金調達の苦労や受注確保の不安なしに、量産ラインを立ち上げることができた。その部品は、コンピュータから高速通信、半導体生産機器など、多くのハイテク機器に採用され、その後18年以上にわたってこの会社の主力商品として売上を伸ばし、高い利益の確保を続けた。

家族の事

渡米して6ヶ月後、私は家族を呼び寄せた。その頃の私はまだほとんど英語を話せず、生活習慣にも不慣れ、仕事も全く軌道に乗らず、何をやるにも時間がかかり、時間が空いたら食事、時間が空いたら睡眠という毎日で、栄養不足、睡眠不足から、月に一度はひどい偏頭痛に悩まされ、とても家族を呼び寄せられる状態ではなかった。

しかし、私には三人の子供がいて、その一人が二重障害児。家族は私を必要としており、既に6ヶ月間の私の不在が、毎週国際電話で連絡をとっていたとは云え、子供達の精神面に影響を与え始めているのが分かっていた。仕事でバタバタしながらわずかな合間を見つけ、家族を迎え、住む家の確保、続いて三人の子供の幼稚園、小学校、障害者通園施設探しや手続きに奔走した。

家内を含め全く英語のできない家族であったが、私自身も仕事を一人で切り盛りするだけで手一杯のため、障害のある子供以外は初登校日でさえ一緒に学校へ連れて行ってやることもできなかった。それでも子供達はそれぞれ自分で自宅前に来るスクールバスに乗って登校した。

初登校の日の夕刻、大急ぎで帰宅した私は、「今日、学校は楽しかった」と云う子供達の報告に救われ、涙が出るほどうれしかったのを思い出す。人種差別の残ると言われるアメリカで、言葉も分からない東洋人の子供一人一人に無料で通訳まで付けて、暖かく受け入れてくれたミネソタのアメリカ社会の懐の深さに驚くとともに心から感謝した。

その後、この地区にも日本人補習校があることを知ったが、税金を納めている地区の学校に行くだけで十分と考え、一切日本人学校には通わせなかった。家族としての交流も日本人に偏らない、地域の人達との自然な交流に努めた。そうした付き合いはアメリカ滞在中だけでなく、20年後の今でも続いている。

現在、私はミネソタ州に最初に製造工場を建てた日本人として、ミネソタ州政府貿易局駐日代表に任命され、人とビジネスの交流拡大を支援している。

還暦をとっくに過ぎた私であるが、今は請われて入社したコンピュータソフト会社で、これまでの全体験を活かして、既存の会社経営常識からは非常識と言われそうな考え方で、新しい社風の会社作りにチャレンジしている。どのようにユニークかは、また別の機会にあらためてご紹介したいと思う。

体験から学んだこと

還暦を過ぎた今、社会人になって以降のことを振り返ると、仕事を通じて実に多くのことを学ばせてもらった。特にアメリカ駐在の年月は、日本に居ては体験できない貴重な学びの日々であった。

<成せば成る成さねば成らぬ何事も>

大企業では、語学力、経験、そして学歴・知識の無さが海外出張可否判断の支障になったというのに、この小さな会社では、さらに10歳も歳を重ね適応力が衰えたかもしれないのに、全く知識も経験もない、はるかに困難なアメリカ駐在任務を任された。次々と直面する難題に、失敗の心配や、疑問を持つ余裕もなく、逃れる術さえ知らず、ただ真正面からその難題と向き合い、ひたすら夢中で取り組むだけであった。そしてふと振り返って見ると、成果が後に付いてきていた。

人間はその気になればそれなりのことができるものだと思う。目的が間違っていなければ、迷うより、百の議論より、先ず行動することだとつくづく思う。

<近くで見ると美人、遠くで見ると奇人>

「百聞は一見にしかず」という言葉がある。私達は多くのことをニュースを通じて知る。しかしながら、ニュースそれ自体は事実かもしれないが、決して全体を表わしてはいない。非日常的なことこそがニュース。したがって、ニュースを聞いただけで全体を、日常を知ったつもりになるのは誤解の元だ。

日本人にはアメリカ社会は銃社会で危険が一杯だと映る。しかし部分的に治安の悪い所はどこの国にでもある。凶悪事件だって起きる。私の見たミネソタでのアメリカ社会は、自然に恵まれ、開放感あふれる、親切で穏やかな社会であった。

1979年。日本経済が光り輝き始め、日本人が経済的自信に溢れ始めた時期に、私はそれとは反対に経済的自信喪失状態のアメリカに渡った。そこで見たミネソタの人々の生活は、フレックスで早く帰宅した父親が、広い庭の芝刈りや花壇の手入れをしたり、週末は家族でピクニックを楽しんだり、あるいは無料で、まるで専用の美術館のように静かに絵画鑑賞を堪能したり、目も覚めるばかりの芝生や樹木あふれる公園でのんびりくつろいで過ごす。

一方で、決してグルメやブランド品に大金を使ったりしないというものであった。質素だが、精神的、人間的に豊かなミネソタの人々の日常生活に比べ、あのドブねずみスタイルで、脂汗にまみれ、長時間残業の末、混雑する週末家族サービスで疲れ切り、月曜日にはしぶしぶ出勤するという日本のサラリーマン生活の惨めな姿に初めて気付き、経済大国日本への疑問と日米の日常生活の質的落差に驚いた。

内から見れば光り輝ける経済大国日本も、外から見れば、人間的にはぼろぼろの疲弊大国だとしか見えない。経済発展で日本人は何を得、何を失ったのだろうか?

<効率良い知識詰め込みも教育なら、効率の悪さで苦労に直面するのも教育>

子供達は、予め英語の勉強などせず、渡米と同時に地域の学校に入学し、現地日本人学校、補習校には一切通わなかった。帰国後も塾や補習校には一切通わず、地域の公立学校に編入しただけ。そのため、帰国後の再適応にそれぞれ随分苦労したようだ。しかし何とかなって卒業した。他人には経験できない苦労自体が勉強になったと思う。効率良く知識を詰め込むのも教育かもしれないが、効率の悪さを体験し、苦労し、それを乗り越えていく努力も一つの教育だと思う。

経済不況、実は人材不況

バブル経済が崩壊して久しい。しかしながら日本経済は一向に回復の兆しを見せない。そのような中、昨年、ミネソタ州の日米協会の定例会で、私の会社の経営理念について講演させていただく機会があった。その中で「長引く日本の経済不況について」意見を求められた。私はエコノミストでも経済学者でもまして政治家でもないがとの前置きをした後、即座に次のような発言をした。

「多くの皆さんは、日本は経済不況だと云うが、日本は決して経済不況などではなく、あれは人材不況だ。経済は結果に過ぎない。それを経済不況と勘違いし、経済の視点での対策しか取らないから、いつまで経っても日本経済は回復しない。冷静に考えれば、日本には1,400兆円という巨額の眠れる資金、世界トップレベルの技術力・製品開発力・製造技術、世界第一級のインフラ、さらに良質の労働力という、経済活動に必要な重要エレメントは贅沢なほど揃っている。それにもかかわらず経済活動が活発でないのは、これだけのエレメントを使いこなせるだけの人材が居ないからであろう。経済対策ではなく人材対策こそが日本経済を元気にする。経済は結果でしかない。」予想外の意見だったようで大変な反響を呼び、活発な質疑応答が長時間続いた。

日本経済が低迷していることに対して、エコノミスト、学者、経営者など、識者といわれる方々がいろいろな解説をし、批判をし、意見を出している。しかしながら、ただ掛け声ばかりで実態としての目に見える動きも変化の気配さえもない。唯一表に現れるものは、リストラという名の縮小均衡策だけである。

かつて何でもアメリカに倣った時代に比べると、今の日本人には十分な知識や経験があり、その上、比較にならないほど恵まれた経営エレメントもある。今、必要なのは、勇気ある決断と行動ではないだろうか? 誰かが行動し繁栄を取り戻してくれるのをじっと待つのではなく、失敗を恐れず、自らが、可能性にチャレンジし、必ず成功させると覚悟を決めて、その能力を存分に発揮して、行動することではないのか。

間違ったら改めて、また挑戦すれば良い。成果は後からついて来る。

(2003.05.01 記)

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