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日本コンピュータ開発

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コラム「異見と意見」COLUMN

パスカルは『人間は考える葦である』と言った。
さて現在の日本人は?

私は、最近の日本人は物事を深く考える習慣をなくし、安易な答を欲しがる傾向があると感じている。それは書店の店頭を飾る書籍に表われている。日本では郊外型巨大書店から駅の売店まで、至る所で広範な分野の書籍を購入でき、また市町村や学校の図書館も充実している。しかし、書店でも図書館でも、深く考える力や習慣を育てる類の書籍、例えば哲学書や古典ものなどは片隅に押しやられ、目立つところを占有して居るのは、「・・する法」「・・すれば成功する」などといういわゆる“How toもの”や、ストーリーだけを追いかける“娯楽もの”である。安易に“答”が得られ、楽に喜びが得られればそれで良いと言う風潮の表れではないかと思う。

そんな最近のある日、当社のホームページを見て、そのユニークな経営理念や企業文化に興味を持った出版社が、是非書籍化して出版させて欲しいと申し入れて来た。全く“想定外”のことであったが、考えるところがあってその申し入れを承諾した。ところが出版社の企画が進むに連れて、その企画に大きな疑問、違和感を感じる様になった。企画では、「・・・すれば不況は来ない」とか「・・・経営法」と云ったいわゆる“How toもの”、つまり「当社が経営問題の解決法を伝授しよう」というような内容になっていたからである。当社にはそのような意図はないので企画の再考を要求すると、「最近書籍を出版するときには、内容を“How toもの”にしないと販売数が伸びない」という。当社はその独自の経営理念と企業文化に誇りを持ち、社会的に間違ったことをやっていないという自信を持っている。しかし、「当社の真似をしなさい」とか「当社が経営指導をしてやる」などという自惚れた考えは全く無い。「実験企業日本コンピュータ開発」と題して大企業を対象に新しい経営の有り方を講演する一方で、「当社の常識は一般企業の非常識」と公言して止まない当社であるが、まだその新しい経営に挑戦中の未熟な企業であると自認している。しかしながら、現在の日本社会を振り返って見た時、戦後の貧しさからこの豊かさを実現する過程で、この国は物質的豊かさと引き換えに地方社会から荒廃し、記録的な自殺者数や、生活保護受給者数が示すように国民は不幸になっていると思える。それにも関わらず、企業が相変わらず売上高・利益や企業規模の拡大を“盲目的に”追い続けているのを見ていると、「日本の企業経営はこのままで良いのか?」という疑問が湧く。その為、一寸立ち止まり、企業発展つまり経済発展のあり方を再考するキッカケや刺激を提供したいと云うのが当社の出版への期待である。つまり、考えるキッカケの提供が目的であり、「読者は“How toもの”を好んでいる」という出版者の主張に迎合した出版をしたいとは思わない。出版社と一緒になって、考えることから逃れて安易な答を期待する人達をさらに増やすことに加担してはならないと思う。

“考える”習慣を無くした例として最も気になるのは、政権交代や東日本大震災以降際立って頻発する各地の反対運動、自己保身や揚げ足取りで何も決まらない政治、さらには有識者という人達を動員したマスコミによる非難報道の氾濫と、それに踊らされている国民である。私はこれまでの講演の中で「今日という日は昨日の次の日、そしてまた今日という日は明日の前の日」と主張してきた。つまり沖縄問題であれ、原発問題であれ、あるいは政権交代問題であれ、今日現在そこに起こっている現象や問題は、その時々に反対意見がありながらも、最終的には民主主義国家のルールに則り、目的に合致する最良のものとして自分達が選択・決断し実行して来た結果である。それをリードし、決定し、実行した政治家、関係する自治体の長や議員を選び、彼等にそれを委託したのも私達国民である。その選任や施策の決定に当って、一体どれだけ真剣に考えて彼らを選び、関心を持って考えたのか振り返ってみると良い。つまり今日という時点の状態は、昨日までの結果として自分達全てが責任を負うしかないと言える。もし現状に問題が有れば、自分を外において犯人捜しや悪者探しをして、非難や責任の押し付け合いをするのではなく、一人一人が過去の行動や決定に責任を持ち、反省し、自分も社会の一員として参画して、目的に適う別の解決策を真剣に考え、見つけることが重要ではないだろうか?自らは解決策選定に参画せず、氾濫するマスコミやその都度賢人らしく振舞う有識者といわれる人達の主張を鵜呑みにしてただ反対を叫ぶのではなく、バランス感覚を持って自分ならどうするのかを考えよう。少なくとも考える人の足の引っ張り合いだけは止めたいものだ。

民主主義国家では、事態に対する第一義的責任は担当者にあるとしても、最終的な責任は全て国民にある。その責任は目先だけの問題ではなく、将来にも関わることを忘れてはならない。例えば原発問題で言うなら、化石燃料を使って今快適な生活を楽しむ人達は、化石燃料を使い切った後に生きる未来の人達に対して、その代替策を準備すべきだろう。今日という日は昨日の次の日、しかしまた今日という日は明日の前の日だ。この当たり前のことくらいは真剣に考えよう。目先のことで安易な答を見つければ良いのではなく、考える習慣が大切だ。

(2012.10.31 記)

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