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コラム「異見と意見」COLUMN

2004年8月15日

今日8月15日。この日が私達日本人にとってどのような日なのかを意識している人は少ないに違いない。お盆?高校野球?あるいは今年ならオリンピック?

ますます混迷の度を増すイラク及びパレスチナ情勢。ところ構わず頻発する無差別テロ。国民を飢餓と生命の危険にさらす民族紛争・権力闘争と言う内戦。そのような世界情勢の中で、202の国・地域から1万人にも及ぶアスリート達が一堂に集まって、21世紀最初のスポーツの祭典夏季オリンピックが、その発祥の地ギリシャのアテネで昨日8月14日から始った。あのアフガニスタンからもイラクからも代表選手が参加し、格調高く繰り広げられた開会式は、その瞬間だけでも世界が平和である事の有り難さを感じさせるものであった。

その初日に行われた軽量級柔道決勝では、女子48kg級で谷選手が、また男子60kg級では野村選手が、それぞれ女子オリンピック初の金メダル2連覇、男子オリンピック初の金メダル3連覇という偉業を達成し、この8月15日はテレビでも新聞でもその喜びのニュースで日本中が沸いた日である。

一方で、民族の大移動とも表現される日本の季節の風物詩、盆休みと夏休みの帰省客で、主要交通機関の混乱がピークに達したのもこの8月15日。今年も多くの日本人にとって、8月15日とはそんな日だったかも知れない。

しかしその騒々しい社会の片隅で、全国戦没者追悼式典が催され、戦没者310万人余の冥福を祈った。その参列者のほぼ40%が70歳を越えていると言う。その模様が昼のテレビニュースの一コマとして放送され、また夜には第2次世界大戦回顧番組が放送されていた。しかしそういう番組に関心を持っていた人は少なかったに違いない。目覚しい科学技術の発達ににより、あの時代の人達に比べれば現代の人達の方が、はるかに臨場感を持ってリアルな戦争を見て知っている。しかしながら、戦争の悲劇を自分達の事として受け止めている人は、現在の方がはるかに少ないに違いない。

私達日本人にとって8月15日と言う日は、永い鎖国から目覚めた東洋の小国日本が、その勤勉さと努力によって築き、世界に認められた近代国家としての地位と富を、第2次世界大戦ですべて失い、戦争のおろかさと悲惨さを身にしみて感じ、不戦の誓いの下、廃虚の中からの再出発した日である。8月6日に広島が、8月9日には長崎が、世界で最初に原子爆弾の投下を受けて地獄と化し、そういう悲劇と犠牲を経た結果として戦争を放棄し、新しい日本として生まれ変わった日である。

あれから59年、日本は再びその国民の勤勉さと努力によって、戦前にもなし得なかった世界第2の経済大国にまでなり、その豊かさを当り前のように謳歌しているのが現在である。しかし、8月15日の重さを知る人は、この豊かさの中で年々減り続けている。日本は、緑の日、海の日など、何を記念するのか祝うのか分らない祝祭日など世界で最も祝祭日が多い国でありながら、国の生まれ変わりとも言える重みの有る8月15日は国の記念日でも祝日でもない。

新しい世紀が期待に反して、一般市民を相変わらず貧困、紛争、無差別テロの悲劇と混乱から解放できず、あの平和の象徴とも言えるスポーツの祭典オリンピックさえも厳戒態勢の中で行わなければならない最近の世界は、飽食と平和ボケ国家と揶揄され、年少者による凶悪事件の多発する日本を含めて、異常社会と言わざるを得ない。

私達日本人はこの厳しい歴史的経験の下に得た平和と繁栄の中で、単に自己生活の安定や幸せをむさぼるだけではなく、単に経済活動で得たお金を経済援助と言う名目でばら蒔くだけでもなく、あるいは戦争を放棄したと言うだけで平和主義者であるなどと誤解するのではなく、もっと積極的に世界の平和と安定のために貢献する道を真剣に考え、実際に行動すべきではないだろうか?この8月15日を、平和と安全の恩恵を最も良く知る日本人として、あの59年前の8月15日、新しい日本へ再出発した時の原点に立ち返り、世界平和の為の日本の役割、社会の中での自分の役割を真剣に考える日にしてはどうだろうか?

昨日、21世紀最初のオリンピックが始ったばかりである。オリンピックは、紀元前776年に戦いの絶えなかった古代ギリシャのオリンポスでの祭典の一環として、この期間だけでも全ての戦いを中止し、敵も味方も一堂に会し、スポーツを通じてその肉体の可能性を競い、交流を通じて相互理解を図る場として始めたのが起源と言われている。その後1000年以上続いて消えた古代オリンピックを、19世紀末に、フランス人クーベルタン男爵が、国威発揚でもなく、また単に相手を打ち負かすという目的ではなく、人間の限りない努力の成果を競演する場として復活させたものである。

しかしながら、一部の国ではこの精神を忘れ、その選手の人間としての尊厳を無視し、個人の意志に関係なく国家権力により自然の肉体を管理、改造してまで、国威発揚に走る傾向さえあると言われるのは誠に残念な事である。

経済活動であれ、スポーツ活動であれ、その事が自然の人間性をねじ曲げたり、人と人の間に恨みや誤解を引起こす様な事が有ってはならない。戦争は相互不信や誤解、感情のゆがみなどが原因になることが多い。

同じこの8月に、サッカーのアジアカップというスポーツの祭典の中で、大国意識が有りながら、スポーツマンシップもホスト国としての礼儀も忘れ、大国にふさわしくない行動を起こした国があった事は残念であり、気の毒でさえある。経済大国日本の国民として、これを非難するよりも謙虚に学びたいものである。

(2004.08.30 記)

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