NCK株式会社
日本コンピュータ開発

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コラム「異見と意見」COLUMN

独自の、非常識理念経営への挑戦を振り返る

大企業の孫会社から独自理念経営の会社へ

当社は1984年、日立製作所(以下日立と略称)の孫会社の位置づけで設立されたソフトウェア会社です。
急速な経済拡大とソフトウェア需要の高まりの中で、圧倒的に不足するソフトウェア技術者確保が目的でした。ところがまだ会社の体もなしていない設立3年後の1987年、初代社長が不治の病に倒れ、初代社長とは日立勤務時代から旧知の間柄で、15年前に日立を退社、1979年に渡米し会社設立、経営していた私が急遽米国会社を退社して帰国し,その経営を継ぐことになりました。
 1987年といえば、後にバブル経済と評される日本経済絶好調の時。米国から帰国した私には、この好況に狂ったように沸き立つ日本社会、企業の姿は異常に映りました。日本社会は欧米に追い付け追い越せとひたすら経済発展を追い求めている内に、あの素晴らしい伝統的文化、国民性、価値観を失ってしまったのではないか?経済発展を牽引するのは企業。日本の企業はこれで良いのだろうかとの疑問が湧きました。
 そこで経営を引き継ぐにあたり私は企業の在り方を根本から見直し、常識に拘らない独自の理念に基づく経営を目指すべきと考えましたが、一方で大企業の子会社、ましてその孫会社が将来どの様な運命をたどるかを承知していた私は、独自経営に挑戦するには親会社による経営支配からの独立は絶対条件だと考えました。
 そこで入社早々、私は当社の親会社である日立の子会社を飛び越え直接日立の会長へ日立グループへの出戻り挨拶ついでに、この会社の経営を自らのビジネス経験、人生経験に基づく価値観をもとにした独自経営にしたいと打診。了解はされなかったものの拒絶もされなかったことをよいことに、親会社社長には「日立の了解を得た」と報告。初代社長逝去で経営を完全に引き継いだ1990年、独自の理念経営へ方向転換しました。
 それから31年、バブル経済崩壊、IT不況、リーマンショックなど数々の難問に直面しましたが、常識に拘ることもなく常に前向きな取り組みで突破し、今では日立グループ所有株式すべてを買い取り、全株式を社員と経営陣が所有し、銀行に支配されることもない無借金、独立、独自の理念経営で、各方面から注目される「当社の常識は一般企業に非常識」と公言する会社になりました。

「当社の常識は一般企業の非常識」と公言する会社とは?

このような経過で挑戦し始めた独自理念経営の概要は次の通りです。
1)企業としての存在基盤
  資本主義の下、企業が経済的成果/業績を追求するのは当然です。しかし「当社の常識は一般企業の非常識」と公言する
  当社は、職場は社員が起きている時間の大部分を過ごす場所であり、企業は最強の社会人教育機関とも認識し、社員がた
  った一度の自分の人生を企業戦士でなく良き市民として、ここで過ごして良かったと思える職場の創造と提供こそが、経
  済的成果/業績に優先する
会社存在基盤だと考えています。
2)経営の基本姿勢
  企業が正常に営業活動できるのはそこに安心安全な社会があるからであり、企業はその社会を一方的に利用するのではな
  く、社会の一員、Corporate Citizen としてその維持発展に貢献する一方で、その恩恵を被って活動させてもらうという
  認識で、当社は「企業と社会との関係はGive & Take 」を基本姿勢としています。
3)目指す経営
  イ)生き残る経営ではなく、いつ倒産してもよい経営
    倒産は経済社会からの引退勧告。役立たなくなったら倒産するのが社会貢献。その為元気な時に役立つ仕事に全力で
    取り組み、会社依存型企業戦士育てではなく自立した社員育てする経営を目指します。
  ロ)売上高や営利などは目的ではなく社員育ての結果とする経営
    社員が育てば結果は後からついてくると考え、社員の指導育成最優先の経営を目指します。
4)経営理念
  イ)社会に役立つ仕事をしよう
    儲かる仕事の受注競争より、儲からなくても社会に役立つ仕事の提案、開発競争を優先します。
    儲からない仕事でも利益を生み出すのが経営の力だと考えます。
  ロ)社会に役立つ活動をしよう
    営利活動だけが企業活動ではないと考え、社会の維持発展、共存共栄への貢献にも努めます。
  ハ)社員と共に良き市民になろう
    企業は企業市民(Corporate Citizen)、社員は企業の私物ではなく市民。共に良き市民を目指します。   
5)社員育ての理念と手段
  イ)仕事を教材に 
    社員を単に規則規定やマニュアルに従って働かせるのではなく、仕事を教材、実力試しツールとして、常にその時点
    のベストの知識と技術で挑戦、結果として経験年数を重ねるほどに価値ある人財へ育成することを目指します。規則
    規定やマニュアルなどはその時点のベストであっても、この技術進歩の激しい現在のベストではありません。
規則規
    定やマニュアル依存、指示待ち使われ人間は、年数を重ねるほどに老化、能力が低下するものです。
  ロ)役職を成長のツールに
    役職を目標、成長のあがりと認識すれば、役職に就いた途端に成長は止まり役職で仕事をするようになります。役職
    は成長のためのツールとして未熟な内に任命し、役職が期待する役割に挑戦させ、役割を果たす力が身に付いたら直
    ちに役職を後輩に譲り後輩育てに努めること。そうすれば役職経験者あふれる非常事態対応力を備えた強力な組織に
    なります。

独自経営理念を生み出した私の人生体験】

 私は1939年、大分県の片田舎の農家生まれ。貧しい時代に貧しく育てられ、大学進学もかなわず、高校卒業と同時に社内教育制度の充実を期待して日立に就職。配属は日本ではまだ試作研究段階のコンピュータ開発設計部門。アメリカの技術情報に注目した試行錯誤の日々。そんな入社3年目、幸運にも日立が新たに設けた社内教育制度で大学教育、引き続いて研究生として国立大学への国内留学という、企業による最高の教育を受けました。職場復帰後も常に開発業務続きで、昼夜を問わず毎日が仕事を教材にした学びの連続でした。その一方で設計主任を務めながら非専従での労働組合役員経験もさせてもらいました。
 1972年、ドルショックに伴う世界的不況で経営危機に直面した取引先から日立へ、私を名指しした経営支援人財派遣要請があり出向、翌年取締役就任と同時に日立を退社しました。巨額の銀行借金経営に苦しむ社員に心を痛めながら悪戦苦闘。6年間で立ち直った1979年、次の飛躍を目指して米国進出が決まり、言葉も知識の準備もない私が担当者として単身渡米し起業に取り組むことになりました。すべてが初体験の悪戦苦闘。通算6年間の滞在で、設立から顧客開拓、輸入販売、工場建設、商品開発、製造販売から経営までを担当し、現地人120名を採用する製造販売会社に成長しました。
 帰国を目論んでいた1987年、退職以降も続いていた日立との人的交流で当社の非常事態を聞き、社会人としての基礎教育を受けた恩返しの認識で、急遽帰国して当社の経営を引き継ぐことになった次第です。
 生まれて82年、社会に出て63年の波乱万丈と評される人生を振り返った時、貧しかったが不幸ではなかった子供時代、貧しかったからこそ学んだことも多く、日本の伝統文化がまだ残っていた古き良き時代の社会と企業に育てられたという認識があります。そのような人生を生きた今、この洪水のような物質的豊かさの中で育つ子供たち、そして今なお経済的業績の追求に明け暮れる国民は幸せなのかという疑問がわきます。人は経済発展のために生きているのではなく、人のために経済はあるのではないでしょうか?職場は人生の場。仕事を役務でなく人生を楽しむツールとして、悔いのない人生を送りたいものです。

(2021.10.02 記)

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